合気道に関するQandA
・(財)合気会 発行・規範合気道 基本編より・


合気道はとても簡単には言い表し難い武道であると思います。
より多くの方に少しでも理解していただきたいため、あまりに難しい表現と考えられる箇所は省略させていただきました。

 

Q:合気道にはなぜ試合がないのですか。

A:(中略)
「合気道では試合はしない」という立場を一貫してきました。
何故かというと、合気道には「相手を倒す」という思想がないからです。もし試合を行えば、必ず「勝ちたい」「相手を倒したい」という執着心が生じるでしょう。
そうした思いがあっては、自然と一体にはなれません。それは天地自然の調和に反しているのです。

自然と一体になり天地自然と調和するということが合気道の要諦です。
したがって試合を行えば、それは合気道にとっての一番大事な理念自体を否定してしまうことになるのです。ですから、試合は行わないのです。


Q:合気道で強くなれるのですか。

A:十分強くなれます。合気道は日々の心身の鍛練です。心の修行ができれば何事にも動じません。その強さが重要です。


Q:では心の修行では何が大事なのですか。

A:合気道は武道です。それは観念の訓練ではありません。つまり、毎日の鍛練によって体が覚えるものであって、念仏や読経のように行うものではないのです。それをまず理解してください。
何事にも動じないとは、すなわち自己に不抜の中心を持っているという事です。この中心を育成することが合気道の眼目です。
(後略)


Q:子供や老人,女性でもできると聞きましたが。

A:(中略)若い時にしかできないようなものであれば、一生かけて学ぶことなどできません。また男性にしかできないというのでは、やはり特殊なものだという事になるでしょう。
これは単なるお題目でなく、合気道の稽古は事実として老若男女を問いません。現在、国内における合気道実習者の男女比は概ね、女性:男性=1:3となっており、
概観するに、なぎなたを除けば、合気道は比較的女性実習者の比率の高い武道だといえます。

また実習者の年齢分布を見ても18歳から40歳代の年齢層の比率が高く、他の競技武道の年齢分布と比較すると年齢が高いといえるでしょう。
それは何故かといえば、合気道が自然な動きを基本にしているからです。その動きには無理がなく、特別筋力を必要としません。合気道は学ぶ意志さえあれば、誰でも稽古できます。


Q:それでは稽古と別に筋力トレーニングをする必要はないのでしょうか。

A:必要とは思いません。開祖自身は強力自慢でしたが、武田惣角師に出会ったとき、小柄な翁より更に小柄で当時五十歳代の惣角師に、なす術もなく技をかけられたそうです。
自然な動きとは無駄な力を必要としない動きであり、それが故に年をとっても使えるのです。

力があった方がないよりはいいかも知れませんが、合気道の稽古と別に筋力トレーニングをした場合、筋肉の付く部位が偏るおそれがあります。その場合、筋肉の付いたところに力が滞ってしまい、気の流れがとぎれます。
稽古で自然に付く筋肉が一番よいのです。筋肉を付けようと思って稽古をしなくても、稽古を繰り返すうちに自然に筋肉はつきます。


Q:合気道では「呼吸力」なるものを重視するようですが、それは肺活量と関係あるのでしょうか。

A:肺活量があるに越したことはないといえます。しかし、合気道で言う「呼吸力」統一体において発揮されるものです。つまり呼吸だけでなく、体の力が一致して出る有様が大事です。
逆に言うと、肺活量自体が増えなくても、心身の統一がなされるようになれば、人間の自然な活力が以前より自由に使えるようになるはずです。
気は合気道において中心をなす重要なものですが、その要諦の一つが「呼吸」です。
呼吸をしない人はいませんが、誰もそれを意識することはありません。息を止めれば、我々は即座にあの世へいってしまいます。意識せずとも、呼吸とはそれほど大切なものなのです。
その呼吸と「気」というものを一体不可分のものとする、そこに合気道の一つの生命があるのです。


Q:稽古を見ていると人がくるくる回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。

A:例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。それに対して、「こんなものが入試に出るはずがない」と言って入試問題ばかり解こうとしている学生が居たとしたらどう思うますか。
その学生の学力は向上するでしょうか。「しない」とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。
何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。

そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道でいうと「こう来たら、こうする」式のものに堕しやすいものです。それらはすぐに役立ちそうで、実は逆に使えません。
起こりうる全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、いちいち「こう来たら、こうする」などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。

例えば、座り技。正座して向かい合って相手の腕を取りに行くなど、実際の状況ではあり得ません。しかし、この座り技を修練することによって重心の取り方、呼吸の仕方、体の転移などの基礎が築かれるのです。
全てをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練しているうちに体が体得するのです。体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。
「気」は何処から出すのかという事が円の動きと密接に関係しているのです。円を円として華麗に円滑に描くには、必ず中心がしっかりしていなければなりません。その中心から「気」がほとばしるのです。ぐるぐる回るものは全て、その中心が大切です。中心が少しでもがたついたら、それまで円滑だった円の動きは、すぐに破綻してしまいます。中心がしっかりしていれば、いくら強く回っても動きは滑らかであり、理にかなっているのです。
合気道の動きの中心は人間の重心である「臍下丹田」と呼ばれる部分で、ここが合気道の動きにおいて重要な役割を果たします。
臍下丹田をぴしっと一点に定め、ここを中心として大小さまざまな円を描き出す−それが絶対不動でありながら自在な「気」の発揮につながっているのです。ですから意味もなく回っているのではありません。


Q:蹴りなどの足技はないのですか。

A:ありません。開祖自身は足が非常に強く、膝を使った特殊な投げ技なども演武したことがありましたが、合気道の技としては残しませんでした。
自己の中心を定めることが合気の要点であると述べました。足のありようが己の安定と結びついており、それが中心を作るものの一つとなっています。したがって、蹴りのような足技を使うということは、捨て身技に通じるということです。
先ほど、「こう来たら、こうする」式のものは役に立たないということを書きました。蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と「こう来たら、こうする」式の発想の人は考えるに違いありません。
タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めないという人というのは何処にでも居ます。この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと答えていましたが、立ち合わざる得なくなったのです。
仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。これは「こう来たら、こうする」などとはいっさい考えずに自然に体が動いた結果でした。このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。


Q:乱取りは行わないのですか。

A:行いません。これは試合を行わないのと同じ理由です。合気道は自分から攻撃するということがありません。形の上では、相手から攻撃されてそれを捌くのが合気道の動きです。ですから、合気道を使う者同士の乱取りはなかなか成立しませんし、通常の稽古以上の意味を持つこともありません。


Q:稽古で技をかけられたときにどれぐらい抵抗してもよいものなのでしょうか。抵抗しすぎると、相手に悪いようでもあり、また全く抵抗しなければ稽古として意味をなさないように思うのですが。

A:無理に抵抗することはありません。相手のなすがままになっていて武道の稽古として意味をなさないのでは、と思う人は多いでしょう。しかし、相手に言いなりになることと、相手に自分の気持ちを通わせて相手に連れて動いていくのとは違います。言いなりになっているだけでは確かに鍛錬になりませんが、自分の気持ちを相手に通わせるように動けば結果的に鍛えられるのです。
例えば、昔、八田一郎氏が道場に訪ねてきたことがあります。八田氏は昭和7年(1932)のロサンゼルス・オリンピックに日本のレスリング選手として初出場し、昭和25年から33年間も日本アマチュアレスリング協会の会長を務められた方です。氏は、レスリングに合気道を取り入れようと来たのですが、まずは基本技を体験してもらおうということで、技をかけたところ二教で簡単に「まいった!」とおっしゃいました。気力・体力も人並み優れた氏でありながら、合気道経験者なら何でもないような二教で参ってしまったのです。それは何故かといえば、合気道をやっていなかったからです。
簡単に見えるようなことであってもきちんと修練すれば、必ず鍛えられているという事の証拠の一つです。
実際の場面では、相手が自分に合わせて動いてくれるはずがないから、抵抗した方が現実に近い−そう考えるのは合気道の稽古の重要な部分を見逃しているといえます。


Q:技の数はどれくらいあるのですか。

A:現在、本部道場で基礎・基本の技としているのは大体50ぐらいですが、鍛錬するうちに体の内側から湧いて出てくる動きでも合気道の原理にあったものであれば、合気道の技であるといえます。そういう意味では自然な変化の中で技はいくらでも出てくるので無限と言っていいでしょう。
技は外から真似て覚えるものではありません。個性が他人に強要できないのと同じように、自由闊達な稽古の中から合気の動きが生まれてくるのです。


Q:技が多すぎたら覚えられないという心配はないのでしょうか。

A:新しく稽古に訪れる人の中には、頭で納得してからでないと体の錬磨に移れない人がおります。そして、その数は以前よりも増しているようであり、その人達はこのような疑問を当然持つ事でしょう。そうした人たちは自然の中に融合し一体となった合気道の流れがなかなか理解できません。頭で考え、しかる後に体が動くのであれば心身の一如が成り立っていないということです。「教わった技を覚えきれずに忘れてしまうのですが、どうしたらよいのでしょう」と質問する人には、「忘れることは結構なことです。頭からは忘れて体で覚えていくことが大切です」と申し上げています。


Q:稽古に役立つことで日常生活で気をつけるべき事は何でしょう。

A:例えば、日常生活から姿勢や動作に気をつけることは大事なことの一つです。
しかし、それ以上重要なことは「謙虚」に振る舞うことです。合気道では心の動きと体の動きを一致させることが大事です。人間関係でぶつかってばかりで争ってばかりの人間は動作においても、ぶつかってばかりで和ということを理解できません。ぶつからない動きを知るためには、謙虚である事が一番大切なのです。

 

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